辻友四郎の生涯

辻友四郎の94年の生涯 エピソード編

   只今 制作中

🔵祖父友四郎がアメリカ生活や三星商会時代の話や一緒に暮らした頃の、奇想天外で波乱万丈のエピソードを記録に残します。

🔶誕生1877年(明10)辻家の四男友四郎誕生(福岡県三潴郡諸富村)

 母は鏡次作の長女マサ 1849年〜1921年(嘉永2〜大正9)享年71、  

 父は諸富の領主辻次右衛門の長男次市 1831年〜1897年(天保2〜明治30)。 1971年(明4)の廃藩置県で領主から一般市民となり領地は農民に分配し諸富村初代の村長。享年66。

 友四郎は廃藩置県の6年後の1877年に誕生

●福岡県大川市(諸富)出身のカルフォルニア州ローダイ在住の緒方梢さん(1927年生まれ)談

    廃藩置県後に小作人から地主になった農民の中には元領主の次市に返上を申し出でる住民も多数いたとの言い伝えあり(領主辻家が住民村長の名家政策の証明)

🔺友四郎アメリカへの発想

始めてアメリカ人の、テンガロンハットに、葉巻たばこ、背広に靴の姿を見た衝撃でアメリカに行く決意をした。 

🔺横浜から西海岸のワシントン州シアトルへ

船中での出来事 横浜からシアトル迄2週間の長旅、

一緒の船でアメリカに向かう日本人には毎日毎日洋食ばかりで辛い

友四郎の荷物の中には、布の袋に入れた乾燥飯と梅干がある。

船員に熱湯と食器を頼み、乾燥飯に熱湯をかけておかゆの出来上がり非常に喜ばれたとか

昭和時代に発売されたのインスタントラーメン。友四郎は明治時代にインスタントおかゆを考えたのである【あっぱれ!    友四郎のこんな話を書き綴ろうと思う。

🔺シアトル到着 

  語学の勉強 

  鉄道工事

🔺カルフォルニア州南部バレーに入植

 40エーカー耕作

   日露戦争

  冨太、五郎、雄次の兄弟3人も訪米

🔺嫁さん探しに一時帰国

  11回目の見合いで11歳年下の杉リクと結婚

  再渡米不許可

🔺太平洋諸国歴訪 ⇆ 日本 ⇆ 太平洋諸国歴訪

🔺鹿児島へ

星商会資料肥料の製造販売業創立

商売とは 商売成功の秘訣いろいろ

中国大陸から飼料の原料の穀物の輸入

朝鮮人の弟子入り

事業成功

🔺第2次世界大戦

戦争中の奇抜な体験談

🔺戦後

ルース台風被害

🔵祖父とのエピソード集

お爺ちゃんと 夏の海水浴場

おじいちゃんと正月のサーカス見物

工場大火災

🔺引退

🔺余生、昭和44~46年(1969~71)故郷福岡で、子、孫、曽孫と余生を過ごし波乱万丈の人生を静かに閉じた。享年94歳

🔴友四郎語録 人生観『自分は世界で一番幸福な男』 『ぞーたんごつ』が口癖  (若い時に)アメリカに行き、(商売で成功し)殿様の様な生活を体験した、そして人よりも長生きしている。    商売とは 多くの人に必要な物を探す事
 お金とは 金は信用で造るもの、金では信用は買えない
 信用とは 長年かけてコツコツ築くもの、一瞬で失くすもの、取り戻すには永遠の歳月が必要
 名誉とは 金で買うものではない、与えられるもの
 人生の三大失敗 ➊アメリカの永住権を取得せず帰国した。➋次男を失くした。➌銀行に預金しすぎた。

🔴祖父友四郎が語ったアメリカと商売の奇想天外なエピソード      🔶は義晴の実体験と(当時の年齢)

アメリカ渡航編、乾燥飯と梅干    

到着編、住居準備の日本人の好意を断りアメリ人の家に住み込む。    

在米中、人種差別に対抗。  

日露戦争勃発兵役志願の為帰国を検討。    

成功編、5,000ドル(日本円換算1万円)持参帰国、明治時代のお金です。    

帰国編、11回の見合いで年齢差11歳の杉リクと結婚 (明治43年) 

太平洋諸国編、商売、外国へ、帰国、の繰り返し 大正時代   

鹿児島編、昭和元年~ 飼料肥料大手業者のいない鹿児島へ        

トウモロコシ10表仕入れ~中国大陸から穀物を貨車で輸入するまで        

諸富消防団来鹿寄付 戦後辻友四郎記念碑設立    

戦争中、空襲の被害 工場火災 防空壕爆破従業員の死 その時友四郎は?     

戦後、孫のおじいちゃん

🔶夏休みの海水浴 金時と白熊 (5歳?)

🔶正月のサーカス見物、すり被害 (6歳?)ルース台風の被害

🔶塩屋町大火災 工場と我が家消失(小学1年)晩年、

🔶義和兄渡米。

🔶天保山町NHK放送局塔(小学6年)

🔶友四郎の好物オートミルと養鶏(中学生)

🔶元同業他社や元従業員の評判。(高校生)余生、  

🔶祖父との別れの渡米(24歳)。

🔶アメリカの孫6人に訃報(26歳)

8、大正時代 太平洋諸国歴訪

友四郎の大正時代はアメリカへの再挑戦、フイリッピン、ブラジル、メキシコ、カナダ、など太平洋諸国を経由して、正規ルートでアメリカに帰る道を探るも成功せず。

9、昭和時代 三星商会経営

1925年(昭和元年)49歳’ アメリカを断念、当時肥料の工場がなかった鹿児島に新天地を求めた。飼料肥料製造販売業開始 成功I

アメリカ編

 ◎一時帰国、

太平洋諸国歴訪

 ◎鹿児島へ、

 ◎事業成功

 ◎第二次世界大戦、

引退後

◎余生、昭和44~46年(1969~71)故郷福岡で、子、孫、曽孫と余生を過ごし波乱万丈の人生を静かに閉じた。享年94歳

平木義晴

🔴友四郎語録 人生観『自分は世界で一番幸福な男』 『ぞーたんごつ』が口癖  (若い時に)アメリカに行き、(商売で成功し)殿様の様な生活を体験した、そして人よりも長生きしている。    商売とは 多くの人に必要な物を探す事
 お金とは 金は信用で造るもの、金では信用は買えない
 信用とは 長年かけてコツコツ築くもの、一瞬で失くすもの、取り戻すには永遠の歳月が必要
 名誉とは 金で買うものではない、与えられるもの
 人生の三大失敗 ➊アメリカの永住権を取得せず帰国した。➋次男を失くした。➌銀行に預金しすぎた。

🔴祖父友四郎が語ったアメリカと商売の奇想天外なエピソード      🔶は義晴の実体験と(当時の年齢)

アメリカ渡航編、乾燥飯と梅干    

到着編、住居準備の日本人の好意を断りアメリ人の家に住み込む。    

在米中、人種差別に対抗。  

日露戦争勃発兵役志願の為帰国を検討。    

成功編、5,000ドル(日本円換算1万円)持参帰国、明治時代のお金です。    

帰国編、11回の見合いで年齢差11歳の杉リクと結婚 (明治43年) 

太平洋諸国編、商売、外国へ、帰国、の繰り返し 大正時代   

鹿児島編、昭和元年~ 飼料肥料大手業者のいない鹿児島へ        

トウモロコシ10表仕入れ~中国大陸から穀物を貨車で輸入するまで        

諸富消防団来鹿寄付 戦後辻友四郎記念碑設立    

戦争中、空襲の被害 工場火災 防空壕爆破従業員の死 その時友四郎は?     

戦後、孫のおじいちゃん

🔶夏休みの海水浴 金時と白熊 (5歳?)

🔶正月のサーカス見物、すり被害 (6歳?)ルース台風の被害

🔶塩屋町大火災 工場と我が家消失(小学1年)晩年、

🔶義和兄渡米。

🔶天保山町NHK放送局塔(小学6年)

🔶友四郎の好物オートミルと養鶏(中学生)

🔶元同業他社や元従業員の評判。(高校生)余生、

🔶祖父との別れの渡米(24歳)。

🔶アメリカの孫6人に訃報(26歳)

8、大正時代 太平洋諸国歴訪

友四郎の大正時代はアメリカへの再挑戦、フイリッピン、ブラジル、メキシコ、カナダ、など太平洋諸国を経由して、正規ルートでアメリカに帰る道を探るも成功せず。

9、昭和時代 三星商会経営

1925年(昭和元年)49歳’ アメリカを断念、当時肥料の工場がなかった鹿児島に新天地を求めた。飼料肥料製造販売業開始 成功I

アメリカ編

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